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終戦の日に考える ― 「大義と実態の乖離」、そして、「嘘の既成事実化」


終戦の日。

戦後から80年。今日は戦争の是非や勝敗、被害の大小ではなく、なぜその道を選び、なぜその結末に至ったのか―その過程をたどる日にしました。個人的に注目している二つの視点があります。それは、「大義と実態の乖離」、そして「嘘の既成事実化」です。



戦争への道 ― 「大義と実態の乖離」の始まり


近代日本の大きな転機は、1894年の日清戦争と1904年の日露戦争でした。掲げた大義は「朝鮮の独立」「ロシアの南下阻止」でした。日清戦争は清国との間で朝鮮半島を巡る争いが原因で勝利し、台湾を領有するなどの成果を得ます。日露戦争は、ロシアの南下政策に対抗して日本が勝利し、日本が欧米列強と肩を並べる存在になったことを世界に示した出来事となりました。と、同時に、2つの戦争での実際の成果が、「台湾や南満州の権益獲得」であったことで、「国力を高めるには領土や権益の拡大が不可欠」という成功体験が定着したと言えます。

1910年の韓国併合は、日本が韓国を支配下に置いた出来事です。1915年の対華二十一カ条要求は、日本が中国に対して日本の権益拡大を目的とした要求で、「山東省におけるドイツ権益の継承」「南満州・内モンゴルにおける日本の権益拡大」「中国政府への日本人顧問の採用」などを求めます。第一次世界大戦で欧米列強が中国から手を引いている隙に、日本の権益を拡大しようとしました。

当初は拒否していた中国も、日本の最後通牒を受け、一部を除いて受諾。それにより、中国国内で激しい反発を招き、排日運動が高まるきっかけとなっていきます。

次第に「大義=近代化支援、秩序維持」「実態=主権制限や支配」が乖離していきます。


そして満州では関東軍が常駐し、現地主義で独自に動く体制が常態化しました。



満州事変 ― 自衛の名目と国際調査による実態の露呈


1931年9月18日、柳条湖付近で南満州鉄道が爆破され、日本は「中国側の攻撃による自衛行動」と発表します。この発表は国内では広く受け入れられましたが、国際連盟は事態を独自に調査します。

1932年1月に派遣されたリットン調査団は現地での聞き取りや証拠を収集し、1932年9月に報告書を公表しました。そこでは次のような結論が示されます。

  • 南満州鉄道爆破の被害は軽微で、中国側の計画的攻撃を裏付ける証拠はない

  • 関東軍は事件発生直後から広範な軍事行動を展開しており、事前準備の可能性が高い

  • 満州国の成立は現地の自発的独立運動ではなく、日本の軍事行動の結果である

この調査結果によって、「自衛のための行動」という日本の大義は、国際的には説得力を失いました。日本政府は報告書を拒否し、1933年に国際連盟を脱退しますが、この時点で既に「大義と実態のズレ」が国際社会に記録されていたのです。



■ 日中戦争 ― 戦局報道と海外記者の現地証言


1937年7月7日、日本軍の夜間演習中に中国軍との間で小規模な衝突が発生します。盧溝橋事件です。当初は小規模な衝突で、9日には一時停戦状態となったもの、その後も小競り合いが続きます。両国とも不拡大方針でしたが、両国ともに”もしのもの時の備え”としての振る舞いがきっかけで、「大義と実態がズレ」、全面的な戦争=日中戦争へと進みます。

日本国内では「局地的な衝突」として報道されましたが、海外記者の現地報道は別の光景を伝えていました。例えば、同年12月に南京が陥落した際、日本側は「秩序ある占領」を強調しました。しかし、米国人宣教師や外国領事館員が撮影・記録した写真・証言は、虐殺や暴行、略奪の存在を明確に示していました。いわゆる「南京大虐殺」です。

これらは翌年以降、上海を経由して海外メディアに配信され、国際世論に大きな衝撃を与えます。こうして、日本が掲げた「中国の安定化」「民衆の保護」という大義は、現地証言と記録によって大きく損なわれました。



■ 開戦前夜 ― 大義と実態、そして既成事実化の積み重ね


1938年、日本は戦争の長期化を背景に国家総動員法を施行し、人的・物的資源を国家の統制下に置く総力戦体制へと移行します。大義は「国防体制の強化」でしたが、その実態は長期消耗戦を固定化する体制づくりであり、終わりの見えない戦争構造を内側から固めるものでした。

1939年、満州国境でのノモンハン事件ではソ連軍に敗北。これにより、満州から北方へ圧力をかける「北進論」は後退し、かわって英領マラヤや蘭領東インドなどへの進出を視野に入れた「南進論」が力を持ち始めます。同年9月には第二次世界大戦が勃発し、欧州列強がヨーロッパ戦線に集中する中、日本は「アジアでの行動の自由度が増した」と判断します。

1940年7月、第二次近衛内閣が発足し、「大東亜共栄圏」構想を発表。名目は「アジアの解放と共存」でしたが、実態は日本を中心とする経済圏構築と権益確保の計画です。同年9月には日独伊三国同盟を締結して、ドイツの欧州戦勝に乗じて米英への抑止力とする狙いでしたが、逆に米英の警戒を強めていき、日本を対抗対象として明確に位置づけさせる結果となっていきます。



■ 南部仏印進駐と対米関係の決定的悪化


1940年6月のフランス降伏後、フランス領インドシナは防備が手薄となります。日本は「蒋介石政権への補給遮断」を理由に、まず1940年9月に北部仏印へ進駐します。そして1941年7月には南部仏印への進駐を敢行していきます。

大義は「対中補給路の完全遮断と南方安定の布石」であったが、実態は「米英蘭の影響下にある地域への圧力と、制海権をめぐる先制行動」です。これに対し米国は在米日本資産を凍結し、全面的な石油禁輸を実施して、結果、日本は一気に追い詰められることになります。



■ 日米交渉と「最後通牒化」の構造


1941年7月から11月にかけて、日米間で交渉が続きました。日本の目的は、「石油禁輸解除」と「南方進出の既成事実承認」でしたが、米国の目的は「満州・中国からの撤兵」と「三国同盟の実質的無効化」でした。交渉の形は取っていても、実態としてはアメリカが条件を提示し、日本はそれを緩和してもらおうと懇願する構図でした。この非対称性が、時間とともに「最後通牒化」していく土壌になったのです。

8〜10月には近衛文麿首相とルーズベルト大統領の首脳会談構想も浮上しますが、関東軍や陸軍省が中国撤兵に強く反発し、実現しませんでした。米国務省や議会記録によれば、米側は「日本が南部仏印進駐を撤回する意思がなく、すでに戦時準備を加速させている」と分析していたようです。

事実、日本では陸軍が南方作戦計画を完成させ、海軍も10月下旬には真珠湾攻撃案の詳細立案に着手。外交交渉自体、「開戦までの時間稼ぎ」という性格を帯びていました。



■ 太平洋戦争開戦 ― 「最後通牒」という物語と既成事実化


1937年の南京事件以降、日本は国際的孤立を深め、日中戦争は泥沼化していきました。英米は中国支援を強化し、日本への経済制裁や外交的圧力を段階的に強めます。国内では「戦争回避」を望む声と「対決やむなし」という強硬論が併存し、外務省と軍部の間でも意見の隔たりが続きましたが、一方で南部仏印進駐などの既成事実は着々と積み上げられていきました。


1941年11月26日、米国務長官コーデル・ハルが提示した覚書「ハル・ノート」は、日本の新聞や政府説明によって「事実上の最後通牒」として広く印象づけられます。

  1. 中国(満州を含む)からの全面撤兵

  2. 三国同盟の事実上の無効化

  3. 中国国民政府との国交正常化

  4. 門戸開放・機会均等の原則遵守を求める内容だった。


日本国内では、「外交は尽きた」「開戦不可避」という空気が急速に醸成され、国民も指導層もその物語に包摂されていきます。真珠湾攻撃を「やむを得ない自衛戦争」と位置づける論拠となります。しかし、戦後に公開された米公文書によれば、ハル・ノートは即時開戦を迫る最終通告ではなく、日本が既に開戦準備を終えていることを米側も認識したうえで交渉を続ける余地を残すものでした。

つまり、「交渉の破綻」というシナリオは、すでに日本の事前行動と既成事実化によってほぼ決定しており、ハル・ノートは国内向けに「開戦やむなし」という物語を完成させる役割を果たしたに過ぎませんでした。



■ 戦争末期 ― 虚報と現地検証の落差


1944年7月、サイパン島が陥落した際、日本の大本営発表は「守備隊は玉砕し、敵に甚大な損害を与えた」と強調しました。新聞やラジオはこれをほぼそのまま国民に伝え、「本土決戦への備えこそ大義」という空気をつくります。

しかし、米軍は制圧後、現地調査を実施し、戦死者数・捕虜数を精査しました。結果は、日本側発表とは大きくかけ離れており、捕虜は数千名に上り、「全員玉砕」という事実は成立しないことが明らかになります。さらに米軍は、上陸作戦・島内戦闘・捕虜収容の様子を撮影した写真や映像を公開。これにより、日本国内では知り得なかった実態が、国際的には“検証済みの記録”として残されました。

1945年の沖縄戦でも同様の構図が見られます。日本国内では「健闘」「敵に大損害」と報じられましたが、戦後公開された米軍報告書は、戦力比と損害率が圧倒的劣勢であったことを記録しており、兵力・火力・補給の差が数値化され、戦況が一方的であったことが明らかになりました。



■ 終戦から国際社会への復帰


1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、降伏しました。


開戦時に掲げられた大義――「自存自衛」「大東亜の解放」「共栄圏」は、すでに戦争中から国際社会の検証を受け、ほころびが露呈していました。満州事変後のリットン調査団報告では「自衛戦争」ではないと指摘され、戦地を取材した海外記者の証言や、外交文書、さらには戦後公開された連合国側の報告書は、日本が掲げた理念と現地の実態との大きな乖離を次々と明らかにしました。

この乖離は戦争全期間を通して続き、政府・軍部は失われゆく正当性を補うために、事実の選択や虚報による「既成事実化」を繰り返しました。その結果、日本は国際社会からの信頼を著しく損ない、孤立を深めていきます。


第二次世界大戦の終結後、日本は1945年8月15日の降伏から1952年4月28日まで、連合国軍総司令部(GHQ)による占領下に置かれます。形式上は連合国全体による占領でしたが、実質的にはアメリカが主導しており、この間、日本は自らの外交権を持たず、国際社会の場で直接発言することはできませんでした。


この占領方式が固まる前、連合国の間ではドイツと同じように日本を複数の国で分割統治する案も検討されていました。北海道や東北をソ連、九州を中国、四国を英国、本州の一部を米国が管理するという構想です。しかし、米国は冷戦の始まりと対ソ戦略上の理由から、日本全土を一元的に管理する方が安定的だと判断し、最終的にアメリカ単独占領に決まりました。この判断により、日本は将来的に東西に分断される事態を免れたのです。


1951年9月、サンフランシスコ講和会議は、第二次世界大戦後の国際秩序における日本の立場を再定義する重要な場となりました。会議の目的は大きく三つです。


・日本と連合国との戦争状態を国際法上正式に終結させること。

・賠償や領土問題など戦後処理の条件を定めること。

・冷戦構造の中で日本をどのように国際社会へ復帰させるかを決定すること。


この会議には48か国が参加し、戦争の被害を受けた多くの国々が日本への対応を主張する中、スリランカ(当時のセイロン)代表のジャヤワルダナ財務大臣は、日本に対して寛容な態度を示しました。


「憎しみは憎しみによって止むことなく、愛によって止む」


仏陀の言葉を引用し、戦争賠償の請求を放棄しました。この演説は会場に大きな感銘を与え、拍手喝采を受けたと言われています。スリランカは日本から直接的な侵略や被害を受けなかったこともありますが、それだけではありません。戦前からアジアの多くの国々は西欧列強の植民地支配に苦しみ「大義」を掲げた日本は、その構造に挑んだ存在として見られていました。西欧列強の支配が再び強まることを避けたいというアジア的な戦略意識が、ジャヤワルダナの決断を後押しした可能性は高いでしょう。


結果として、サンフランシスコ平和条約は日本に比較的寛大な条件で締結され、日本は翌1952年4月に主権を回復し、国際社会への復帰への第一歩を踏み出しました。分割統治案が実現していれば、こうした一括した独立は望めなかったかもしれません。この意味でも、講和会議は日本の戦後史における大きな転換点だったのです。



■ 歴史に学ぶ鍵はAI


1951年、サンフランシスコ講和会議で、日本の分割統治や過酷な賠償を求める声が多い中、ジャヤワルダナ財務大臣はこう語りました。


「憎しみは憎しみによって止まず、愛によってのみ止む」


この寛容の精神は、まさに「理念」や「大義」と呼べるものでしょう。もし分割統治が続いていれば、日本は戦時の延長線上に置かれ、自由な社会の基盤は大きく損なわれていたかもしれません。


理念を掲げ、それを共有することは、時に国境を越えて人々の心を動かし、未来を形作る力となります。しかし、それを追い求める過程では、自律と倫理観が欠かせません。戦後の「報道の自由」も、その倫理観を支える重要な柱でした。報道は事実を伝え、社会を透明に保つためのものですが、権利の行使がバランスを崩す場面もありました。


今、SNSの急速な普及によって、あらゆることが可視化され、隠し通すことは難しくなっています。同時に、事実と虚偽の境界はかつてなく曖昧になり、虚偽を見破れなければ「嘘の既成事実化」が始まります。だからこそ、私たちは受け取った情報を分解し、検証し、背景や意図を考え、文脈を明らかにしたうえで、「考え抜いて信じる」姿勢が求められています。


正義は、何を大切にするかによって変わります。立場や視点が異なれば、その物語もまた異なります。だからこそ、正義を貫こうと戦うとき、その相手も同じように自らの正義を守ろうとしていることを理解する必要があります。互いの正義を認めたうえで、対話を通じて納得できる着地点を見出す—その積み重ねこそが未来を形づくるのだと思います。


そしてAIは、複数の物語を橋渡しし、結び直すための新しい道具となり得るのです。



*本記事は、日清・日露戦争以降に見られる「大義と実態の乖離」「嘘の既成事実化」という二つのテーマを、AIを活用して歴史を紐解くことから出発しました。戦争の背後にはエネルギー問題や経済活動といった要因も深く絡んでいますが、今回は一般的に共有されている史実を基盤に構成しています。



 
 
 

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