「表現の自由」の裏にある“敬意”と“責任”──令和ロマンのYouTubeから考える、今どきのメディアリテラシー
- ObokataTakayuki

- 2025年4月29日
- 読了時間: 4分

令和ロマンのYouTubeチャンネルで、退所した相方・クルマ氏が、事務所との退所時のやりとりについて語る回を観た。中でも印象的だったのが、オンラインカジノ騒動の謝罪をYouTubeで行ったことに対して、事務所側から「信頼関係が崩れる行為だ」と指摘されたというエピソードだった。
この話を聞いて、考えた。
“個人の自由”と“関係性の軽視”を天秤にかけて良いか?
モノマネと暴露が“コンテンツ”になる時代
クルマ氏の発言は、単なる事実の共有ではなく、退所時のやりとりをネタとしてモノマネで再現しながら、“内側の会話”を公開していた。誰がその場にいたか、どんな人がどう振る舞ったか——話を聞いた人によっては、個人が特定できるような内容も含まれていた。
本来、こうしたやりとりは密室で交わされるべきものだし、それを公にするのであれば、相手の了承を取るのが“敬意”というものだと思う。悪意がなければ良い、というわけではない。むしろ悪意がないのだとすればなおさら、そこにあるのは“関係性を築いてきた相手へのリスペクト”の欠如なのではないか、と感じる。
そのチャンスは、自分ひとりで勝ち取ったものじゃない、ということ。
そして何よりも忘れてはいけないのは、そのチャンスは、自分ひとりで勝ち取ったものじゃないということ。
芸人がテレビに出られるようになるまでには、マネージャーや制作スタッフ、番組関係者など、数多くの人が関わっている。もっと言えば、事務所の先輩たちが何年もかけて築いてきた「看板の価値」の上で、ようやく得られたチャンスだったはずだ。
自分の人気や実力に自信を持つことは大事だけれど、その“舞台”が誰によって整えられたものかを忘れてしまうと、自由は、ただの「独りよがり」になってしまう。
「空中戦」を見届ける“観客たち”
そして、こうした出来事を取り巻いているのは、観客たちの“眼差し”だ。
SNSやYouTubeには、トラブルの発端から炎上、謝罪、反論、さらにはまとめ動画や考察動画までがあふれている。それを「見ること」「語ること」「いいねすること」が、すでに“関与”そのものになっている。
情報を“見る”だけでも、空気を作ってしまう。
その構造を見抜き、「自分の視線が何を助長しているか」にまで意識を向けること。
それもまた、今求められているメディアリテラシーの一部なのかもしれない。
FM桐生での出来事から考える“場の信頼”
数年前、FM桐生でもこんなことがあった。
番組審議委員会での委員からの真摯な発言が、ある番組で“ネタ”として扱われたことがあった。その放送直後、僕はその点を指摘したが、しばらくして出演者から「番組を降ります」と言われた。
審議委員たちは「番組を良くしたい」という気持ちで、言葉を投げかけてくれている。そんな言葉が“フリ”として扱われてしまったとき、次にまた意見を言ってくれるだろうか。ネタとして扱うことを黙認してしまったら、「今後もご意見ください」と言えるのだろうか?
スケールは違えど、これは令和ロマンのYouTubeと同じ構造の話だと思う。
メディアリテラシーとは「何を発信するか」だけじゃない
情報の正しさを見抜く力、発信の際の配慮。それももちろん大切。
でも、これからのメディアリテラシーに本当に必要なのは、「見る側」「関わる側」の倫理観ではないかと思う。どの言葉に耳を傾け、どの関係性を育むかそして、何を“見届ける”かにまで責任を持てるかでないかと。
最近読んだ心理学の本を通じて、SNS上の世界で感じる“モヤっと感”の正体が、実は人の心理構造として自然なものであることを知った。誰かの不祥事を「物語」として追いかけること、反応を見てスッキリすること、感情を他者に重ねて自分の立場を整理すること。すべて、人間の心がもつ防衛的・適応的な働きとして説明がつく。
なので、それを完全に止めることはできない。でも、“律する”ことはできる。
善悪や正誤で他者を制御しようとするのではなく、「自分はどうありたいか」「この言動がどんな空気を生んでいるか」と問い続けること。それこそが、今の時代に求められる“リテラシー”の本質ではないかと思う。
メディアリテラシーとは、知識やスキルではなく、“内なる自覚”の話なのかもしれない。
この気づきは、今後、崇城大学での講義にも組み込んでいこうと思う。誰かの“発言”や“言論”を扱うことを学ぶ場だからこそ、「観る側の倫理」や「言葉に宿る関係性」まで踏み込んだリテラシー教育が必要だと強く感じている。





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